蒸し暑い日が続いていますね。みなさん、お元気ですか?久保田です。
最近話題の本というわけではないのですが、
ここ数週間、片岡義男さんの『日本語の外へ』という本を読んでいます。
総計600ページを越える大著で、僕はそのなかの第2部「日本語」の、
そのまた半分を読了したに過ぎないのですが、その達成があまりに見事で、
かつその内容は国際文化交流と切実に関係するものだったので、
何か書き留めておきたいと思い、筆を執りました。
とはいえ、この濃密な本の網羅的な紹介など望むだけ無理、
ぜひぜひ実際にご一読あれ、というしかないのですが*1、
ここでは、本書の目次のなかから、(これだけではなんのこっちゃですが)
僕が読んだ部分の小標題をいくつか挙げてみます。
「頭のなかが日本語のままの英語」
「アメリカ国内文脈ではなく、世界文脈の英語を」
「人生のすべては母国語のなかにある」
「母国語は『いつのまにか自然に』身につくか」
「母国語の性能と戦後日本」
僕は仕事柄なのか、よく外国語のことを考えます。
また外国語を学んでいることもあってか僕の唯一の母国語である日本語のことも考えます。
ただ日常的に母国語と外国語を使うときには、
目の前のことで精一杯だったり、あまりに当然すぎて立ちどまって考えずにいたり、
そういう問題がたくさんありました。例えば、
・僕の話す(書く)外国語は、聞き手にどのように聞こ(見)えているのだろう?
・そもそも僕はどれほど外国語を読めて(聴けて)いるだろうか?
・それ以前に僕は母国語をきちんと使うことができているだろうか?
・外国語と母国語はどのように関係しているのだろう?
・(僕は中国語と英語を学んでいるのですが)イギリスの英語とアメリカの英語、
あるいは中国の北京語と台湾の北京語、僕はそれらとどう付き合うべきなんだろうか?
そんな疑問は、日々浮かんでは消え、頭の片隅でくすぶっていました。
僕の勝手な思い込みかもしれませんが、このブログを読んでくださっている方々のなかにも
共感してくださる方が少なからずいらっしゃるのではないかと思ったんです。
このような疑問を考えるとき、本書は極めて参考になる1冊だと思います。
ここで、小説家・高橋源一郎さんによる本書の紹介の一部を引用してみます。
言語が元来持っている「歪み」「かたより」について言及された、とりわけ印象的な一節です。
すべての言語はそれぞれの美点と歪みを持つ。だから日本語の中で生きるぼくたちは、日本語という歪みを通してしか考えられない…(中略)…ぼくたちはその「歪み」から自由になることはないのだろうか。
そんなことはない、と作者(=片岡さん)はいう。「歪み」を知り、そのことを熟知した上で「歪み」を駆使しながら、日本語の外へ出ていくことによってのみ、ぼくたちは「歪み」から自由になることができる、と作者はいう。(『退屈な読書』178~179頁、朝日新聞社、1999年)
実り豊かな言葉の遣い方とコミュニケーション、
その境地に一歩でも近づきたいなと思うと同時に、
そのように遣われた言葉によるコミュニケーションが積み重なったとき、
国際文化交流も大切なブレークスルーを経験するのではないかと考えさせられました。
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