こんにちは。再び三富です。
前回の「「突撃!隣のフェロー勉強会(ブルガリア編)」に続き、今回も、オフィスを抜け出し(といっても、ブログの取材も歴とした業務の一環ですが)、フェロー勉強会に参加してきました。
今回のフェローは、村上春樹、辻仁成、池澤夏樹などの作品を翻訳し、「春樹をめぐる冒険 ― 世界は村上春樹をどう読むか」にも参加された、翻訳家のコリーヌ・アトランさん(Corrinne ATLAN)*1。
「日本現代文学はフランスでどう読まれているか」をテーマに講演してくださいました。
― 翻訳家の使命は、「外国文化、異邦人のことばを母国語に訳す」こと。
外国と自国の文化との距離を縮めることはできても、完全に無くすことは不可能です。「不可能であること」を認識することも、また翻訳家にとって重要なことなのです。
それはつまり、日本の文学作品をあまりにフランスの作品のように翻訳してしまうと、日本らしさが消え、誤解を生むことにもなります。ある程度の“異邦人性”を残すこと。そのことを念頭に置きながら翻訳をしています。
また、“異邦人性”を残すことに加え、翻訳する上で考慮すべき重要なポイントは、、、
キーポイント1:言語によって異なる、読者が連想するイメージ
「さくら/cerisier」という言葉から連想するイメージ。日本の場合は、春、お花見など多くの物事を連想しますが、フランスの場合は、例えば子供の頃、祖父母の家の庭で梯子に登ってさくらんぼを取った思い出が思い起こされます。
また、「蝶/papillon」については、日本の場合は、単に昆虫というイメージであったり、古くは亡き人の魂を象徴するものでありましたが、フランスの場合は、春の明るさを想起させる言葉です。
このように言語が内包する、もしくはその言語が使われる国や地域の風土を反映した、言語独自のリアリティにも注意しなくてはいけません。言葉が違うと、読者が連想するイメージが異なり、それは作品そのものにも大きく影響します。
キーポイント2:読者それぞれに異なる読み方
哲学者のポール・リクール(Paul RICOEUR)が残した言葉に、「原稿を完成させるのは読者である」というものがあります。書き手は、自分のイメージや意見を翻訳し、原稿を書きあげます。そして、読者は、その原稿を読み、自分なりの解釈や翻訳を加え、作品として完成させます。したがって、読者はそれぞれに異なる読み方をしていると言えます。
この読者独自の解釈には、もちろん各自の期待も反映されています。
例えば、フランスにおける日本文学の読者層は2種類に大別されます。1つは、日本の伝統的な考え方を知りたいと、川端康成や三島由紀夫、紫式部などに関心を持つ日本通の人。もう1つは、今の日本社会を知りたいと村上龍、村上春樹などの日本文学を読む人々。いずれにも共通しているのは、日本文学を通じて「日本」を理解しようとしていることですが、それぞれが思い描く「日本」は異なっています。
キーポイント3:意識的か?無意識的か?読み解く作家の意思
作品にあらわれる作家の意思が、意識的なものであるのか、無意識的なものであるのかを判読し、それを翻訳にどう反映させるかも注意すべき点です。
― 「翻訳は愛だ」(村上春樹)
村上春樹は「翻訳は愛だ」と言っています。
私は、翻訳における外国の文化との距離を消すことはできないというジレンマは、愛に似ていると考えます。初めは、理想としてみていたもの(人)について、愛が深まるとともにその現実を知り、しだいに愛がさめていく・・・。愛しつづけるためには、ある程度の距離を保つことで理想の状態を維持すること、つまりは冒頭の「ある程度の“異邦人性”を残すこと」は文学への愛をもちつづける上で重要な役割を果たしていると言えます。
作品を愛すればこそ、誤解を生まないよう言語独自のリアリティを考慮し、
作品を愛すればこそ、読者の期待にも配慮し、
作品を愛すればこそ、作家の意思を汲み取り、
そして、外国文化、異邦人のことばを母国語に訳す。
翻訳家とは、作品に関わる全ての人々に献身する職業なんですね。
コリーヌ・アトランさんは、1月11日に京都支部でも講演会をおこないます。お近くにお住まいの方は、是非お越しください。
ジャパンファウンデーション京都支部 2007年度第6回フェローセミナー
「日本現代文学はフランスでどう読まれているか」
日時:2008年1月11日 金曜日 18時~19時30分
会場:関西日仏学館稲畑ホール(京都市左京区吉田泉殿町8)
URL:http://www.jpf.go.jp/j/others_j/news/0712/12-03.html
※事前予約は不要ですが、満席になり次第入場を締め切ります。
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