Monday, June 23, 2008

NC授業見学会に参加してきました!






突然ですが、問題です。






問題:正しいほうを選びなさい。その理由も考えなさい。


子ども:お母さん、これ{a. 壊れ b. 壊し}ちゃった。


     階段から落ちちゃったの。


母親: それは、{a. 落ち b. 落とし}たんじゃなくて、


    {a. 落ち b. 落とし}たんでしょう?


子ども:???









読者の多くが日本語を母語としている方々だとすると、


最適な答えは順にa→a→bだということはすぐにわかりますよね。


では理由は?と聞かれたら、みなさんどう説明しますか?




これは、JFサポーターズクラブ*1 5月のイベント


「日本語国際センター 授業見学会」で出された問題です。





去る5月22日(木)に開催された定員20名のこのイベントに、


今回は私、久保田が参加してきましたので、記事を書いてみたいのですが、


イベント全体に関する報告は、本企画を主催した


JFサポーターズクラブのウェブサイトに掲載されているので、


僕は思い切って「部分」に焦点を当てて書いてみます。





日本語国際センター(通称:NC)といえば、


国際交流基金(ジャパンファウンデーション)の付属機関の1つ、


本ブログでも、NCニコさんの月例(?)記事ですっかりおなじみですよね。


そのジャパンファウンデーションが誇るNCの大きな業務といえば


「海外の日本語教師研修」です。





実際に体験してみた授業の様子や、


生の研修生の方々とのふれあいは、


いろんな意味で興味深いものでした。


今日はそのうちの1つだけに絞って書いてみたいと思います。





そこで冒頭の問題に戻るのですが、


この問題は「自動詞と他動詞」についての説明のなかで出てきました。


読者のみなさんは、日本語の「自動詞/他動詞」の区別


って考えたことがありますか?





先生によると、自動詞と他動詞の違いは「ものの見方」との由。









例:(1)火が消える (2)火を消す









火のついた1本のろうそくがあなたの目の前にあります。


(2)では、誰か(ひと)が火を消しています。


つまり同時に「ろうそく」と「ひと」の両方が目に入っていますよね。





一方(1)では、目に入るのは火の消えたろうそくだけで、


視界のなかに「ひと」はいません。


このような「ものの見方(見え方)」が


自動詞・他動詞の違いにつながっているんですね。





こうやって書いてみると当たり前のことのように思えますが、


説明を聞いたときには、普段考えないことゆえに新鮮で、驚きました!





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当日の授業風景





さらに話は「大人と子どもの違い」にまで発展しました。


先生曰く、「大人と子どもの違い」とは


「なぜ(理由)」を考え、責任の感覚を持つかどうかだそうです。





冒頭の会話がいい例ですが、


子どもが「おもちゃ、壊れちゃった」というとき、


「壊れた」という「結果」だけを意識しているように思えます。


一方、お母さんが子どもをたしなめて、


「壊れたんじゃなくて、壊したんでしょ?」


というときには、「誰が」「何を」壊したのか、


つまりプロセスや動きが意識され、


この場合だと責任の所在が意識されています。


あること(結果)が起こった原因にまで考えが及ぶのが


大人なのかもしれない、と先生はおっしゃっていました。





この授業は、文法の授業だったのですが、


文法について教授するのはもちろんのこと、


文法から派生して、ものの考え方・捉え方という


より大きな問題まで話題が広がっていく教え方の巧みさに


僕はすっかり感嘆してしまいました(スゴイ!)





普段から、NCやKC(関西国際センター)の先生方の授業は


すごいと耳にしていましたが、本当にすごかったです。


そんなこんなで、いい経験をさせてもらったなあと思っていたら、


そのとき読んでいた小説でこんな文章と出会いました。









「何かを感じてなくても、ずうっと何かは感じていたんだろうな」


(中略)


「感じる」という言葉は、自動詞と他動詞の区別がはっきりしていないし、


能動態と受動態の区別もはっきりしていない。大人になると


動詞全般をつい他動詞の能動態で考えがちだけれど、


感覚にまつわる動詞は受動態か目的語を伴わない自動詞で、


子どもの場合には圧倒的にこっちの方で、


それを大人の用法で考えてしまうと「何も感じてなかった」


ということになってしまうということなのかもしれない。


人間よりずっと運動能力が高いサルがどれだけ「高いところにいる」


という気分をもっているかはちょっと想像がつかないけれど、


やっぱり受動態か自動詞の「感じる」で感じているんだろうな…


(保坂和志『カンバセーション・ピース』p.231)






NCでの今回の経験と結びついているように思って、


おもしろく感じたので引用してみました。





考えてみれば、ことばは私たちとあまりにも深く結びついていますよね。


結びつきがあまりにも緊密すぎて、普段は意識することはなかなかありませんが、


実際はことばとどう向き合うかは、ひとと、


ひいては自分がかかわるものすべてとどう対するかに関係する


重要な問題なんだなと改めて感じました。





見学会の最初に配られたNCのパンフレットの冒頭はこんなことばで始まります。





はじめに「人」がいる。





ジャパンファウンデーションが文化芸術交流、


日本研究・知的交流と並んで


日本語教育を主な任務としている理由の1つを、


いまいちど認識したような気がして、尚更いい経験になりました。




*1:JFサポーターズクラブについてはこちら。昨年も開催されたこのイベント、今回は2回目です。





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